はじめまして。なべちゃんです。
2019.04.25
目次
1 自己紹介:なべちゃんとは
2 薬剤師を目指したきっかけ:時給3,500円の仕事
3 就職活動:ドラッグストアとの出会い
4 独立:労働者から経営者へ
自己紹介:なべちゃんとは
皆さん初めまして!
「薬局再生コンサルタント」のなべちゃんです!
今日は、どうして私が「薬局再生コンサルタント」と
名乗ろうと思った理由を自己紹介と共にお伝えしようと思います。
私は1981年生まれ、
38歳山形県出身の「渡辺淳志(わたなべあつし)」こと、
通称「なべちゃん」です。
東京の薬科大学を出て、
都内で妻と3人の男の子と暮らしており、
現在は、東京都と神奈川県で
薬局を3店舗経営しています。
1号店は運と偶然の連続で、
京浜東北線の駅から徒歩30秒のところに出す事ができました。
出してみてつくづく思ったことは
「薬局は立地だなあ」ということを実感しました。
地方出身の私にとっては駅から徒歩30分、
1時間は駅近の認識でいました。
これは、東京では「駅から遠い」という感覚なんですね(笑)
薬剤師を目指したきっかけ:時給3,500円の仕事
さて、私が薬剤師を目指したきっかけをお話したいと思います。
両親ともに経営者でしたが、
親父は職人かたぎ的な零細工場経営者で、
小学校時代は極貧生活を送っていました。
高校2年生の頃に将来何をしようかと考えていた時に、
「薬剤師時給3,500円」のチラシを見て
薬剤師ってどんな仕事だろうと思い、
通っていた高校の先生に薬剤師のことを尋ねてみました。
先生からは「薬を扱う仕事だけど、
薬科大学に行かないと薬剤師にはなれない。
薬科大学は偏差値も高いし、
今のままでは進学は無理。
私立なら何とかなるかもしれないけど、学費も高いよ。」
と教えていただきました。
それを聞いて私は
「薬剤師なら社会にも認められるし、
経済的な最低限の安定も得られる」と思ったのです。
その後、薬科大学に進むことを高校3年生の春に志し、
薬科大学入学のために数学、化学、英語を中心に猛勉強を始めました。
ちょうどその頃の我が家の経済状況ですが、
ありがたいことに、
運良く両親が経営する会社が順調に成長したこともあり、
奨学金と合わせて、なんとか薬科大学に進学できる状況になりました。
高校時代はあまり勤勉な方では無かったため、
薬科大学入試に向けた勉強に苦労しましたが、
学力と経済環境が上向むいたことで、
東京の薬科大学に合格して薬剤師への第一歩を踏む事ができました。
この頃から、「努力することの大切さ」に加え、
「経営能力の重要性」を強く思い始めました
大学時代は授業、実習、試験の繰り返しで
本当に大変でしたがたくさんの友人、
先輩後輩に恵まれたおかげもあり、
あっという間の学生生活でした。
今でも当時の友人たちには
ビジネスやプライベートでお世話になっています。
学生時代ではアルバイトにも精を出し、
宅配牛乳の飛び込み営業をしていました。
時給に加え、
1件契約をとっていくらという給与形態のアルバイトでしたが、
社員さん達と同じ契約件数がわかるボードに
月ごとに契約状況が貼り出されていたため、
社員さん達にも負けたくないという気持ちから、
ほぼ毎日営業活動を頑張ったものです。
このような努力が報酬につながり、
ありがたいことに経済的に不自由のない大学生活を送る事ができました。
就職活動:ドラッグストアとの出会い
そのような多忙で充実した学生生活の中、
就職を考える時期が近づいてきました。
経営者になりたいと思いつつも、
まずは私の強みであるコミュニケーション能力を生かせて、
当時の薬学生の卒業後の花形就職先でもあり、
収入も高い製薬メーカーのMRになろうと考えたのです。
自分も専門的な部分で技術を磨いていたら、
経営者への道が開かれると思ったからです。
就活を経て大企業のMRとしての内定を運良くいただき、
卒業後はMRとして頑張ろうと決意していた矢先、
運命を変える出来事がありました。
大学4年になっても就職先を決めていなかった友人から
調剤薬局やドラッグストアの就活セミナーに誘われたのです。
その就活セミナーに行って、
その後みんなで新宿に飲みに行こう!
と話に乗っかり気軽な感じで参加しました。
もう既に内定先も決まっていましたから、
やることもなくセミナー会場を終了時間までウロウロしていた時に、
私が就職する神奈川県のドラッグストア調剤薬局運営企業のブースを見つけ、
立ち止まりました。
ブース内はほぼ満席でした。
私が後方で立見をしていたら、
採用担当の方が椅子を探してくれましたが、
なかったためそのまま立って話を聞いていました。
そのようなきっかけもあり、
その後、採用担当者から後日食事しながら
説明をしたいとのお話しをいただきました。
友人を数人連れて、
学生には憧れの街である新橋に
毎月採用担当者と話している中で大きな転機を迎えたのです。
「製薬メーカーの社長にはなれないよ。
超大企業の経営者は経営のプロがやるから、
新卒叩き上げでは経営者にはなれない。
ドラッグストア、調剤薬局なら叩き上げで
経営者になっているケースがいくつもある」
私の中で大きな事件でした。
悩みました。本当に悩みました。
気づけば翌年の4月に
そのドラッグストア調剤薬局運営企業で
新入社員代表の挨拶をしていました。
独立:労働者から経営者へ
入社後はドラッグストアに配属されました。
ドラッグストアで販売しているものは、
OTC薬や医薬部外品、健康食品だけではありません。
食料品や雑貨、化粧品など多岐に渡ります。
力仕事が多かったので、
私は医薬品や健康食品などのヘルスケアコーナーだけでなく、
洗濯洗剤や食器洗剤、シャンプーなどのお風呂用品などの
雑貨商品の発注や売場作りなどを担当しました。
2年間ドラッグストアで勤務後、
調剤薬局に配属になりました。
最初に配属された薬局は1日200枚を薬剤師5名、
事務3名で運営する忙しい薬局でした。
ベテランの薬剤師が多くいたため、
毎日さまざまなことを厳しく教えていただきました。
忙しい薬局に配属され、精神的にも体力的にも辛かったですが、
慣れてくるとなんでもなくなります。
今、慣れない仕事にきつくて苦しんでいる方は、
慣れるまでの6カ月は我慢して続けてもらいたいと思います。
早く一人前になるために、
パソコンで調剤棚の棚割表を作り、
ピッキングのイメージトレーニングができるようにしたり、
よく出る薬品の予製を積極的に考え提案したりしました。
患者さんと仲良くなってくると、
薬や健康のこと以外に生活やお金のことも
相談を受けるケースが増えてきました。
そのようなこともあったので、
調剤薬局配属後1年後にファイナンシャルプランナーの勉強をはじめ、
半年後にはファイナンシャルプランナー2級に合格し、
AFPと言われる認定資格登録後、
専門家として薬以外の相談に乗れる環境を作りました。
3年後、これまでの努力か認められたのか、
社内で一番売上の高い薬局の薬局長に登用されました。
その薬局は、循環器内科、整形外科、眼科、婦人科、
歯科の5クリニックが入っているいわゆる「ドル箱薬局」でしたが、
門前医療機関とのトラブルが続き、
薬局長が2人つづけて9カ月で変わっていました。
最初は出入り禁止になっているクリニックへの挨拶。
当然、面会は断られ続けました。
院長先生の誕生日が近かったので、
花のアレンジメントと一緒に「過去の謝罪と薬局長が変わった事、
今後信頼を得られるように活動していく事」を手紙に書きました。
翌日その院長先生から呼ばれ、
面会できたときはうれしかったです。
そのような活動をしていくうちに
夏と冬に5つのクリニックの院長先生飲み会の
幹事を任せられるなど信用を勝ち取っていきました。
それ以外にも定期的にゴルフや飲み会をしていたため、
院長先生たちとも良好な関係を築くことにより、
安定的な薬局運営が可能になりました。
また、薬局は薬局未経験者が
頻繁に配属される研修店舗へ成長させることができました。
薬剤師数は10人を常に超え、
安定した薬局運営と研修ができるようになりました。
薬局長として配属された4年後、
その薬局も含む15店舗のエリアマネージャーに登用されました。
仕事内容が大きく変わる中、
千葉から横須賀まで広い範囲の薬局を担当しました。
理想の薬局を求めてさまざまな考えを
内外装や教育に入れ込み35店舗の新規開局の開設に関わりました。
また、行政対応も全てしていたので、
書類漏れ対策や個別指導なども学びました。
ここで得た知識が独立後の薬局作りに大きな影響与えてくれています。
もともと40歳までに、
この会社の社長になろうと思いましたが、
先輩方を見て難しい事がわかり、
別で独立しようと考えました。
そんな中、
2014年にお世話になっていた先生から
クリニックを移転するとの話を聞き、
上司に提案しましたが、
1つのクリニックだけでは薬局は作れないとのことで断られました。
その先生から私が独立して薬局をやって欲しいとの
有難いお話をいただきましたが、
私の中では時期尚早だと思い悩んでいました。
その際に、独立するなら一緒にやりたいと
言ってくれる薬剤師や友人の銀行員から融資が問題ない事業であるので
絶対やるべきだとのアドバイスをいただき、
2015年9月に1号店のオープンに至ったのです。
この小さな一歩が、私の「経営者としての薬剤師」の取り組みの始まりなのです。